グローバル経済の約3割を占める巨大経済圏の誕生だ。11月15日、ASEAN(東南アジア諸国連合)加盟10カ国と、日本、中国、韓国、オーストラリア、ニュージーランドの合わせて15カ国が、東アジア地域包括的経済連携(RCEP)に署名した。
【動画】2100年に人間の姿はこうなる? 3Dイメージが公開
しかし、そこにはアジアの経済大国の1つが欠けていた。インドである。長期にわたる交渉の末、インド政府はRCEPへの参加を拒否した。
RCEPが発効すれば、加盟国間の商品やサービスに対する関税の撤廃や引き下げが行われる。投資と競争に関する規定が設けられ、知的財産の保護も確実なものになる。
政治・経済の専門家は、インドがRCEPに参加すれば恩恵を被ると主張してきた。安価で高品質の製品が手に入るという国内消費者にとってのメリットに加え、インド企業がグローバルなバリューチェーン(価値連鎖)の一部となり、外国からの投資を引き付けられるという利点もある。
インドが過去に参加した自由貿易協定(FTA)は、タイやカンボジア、ベトナム、マレーシア、フィリピンへの輸出の増加につながった。日本などから製品を安く輸入できるようになり、輸入量は増加し、生産能力が向上した。
さらに専門家らは、RCEPに参加すれば雇用が創出され、経済成長を維持できると主張した。政治的な利点もある。RCEPに加盟すれば、将来的に合意形成に参加するチャンスを得られるはずだった。撤退によってインドは孤立し、貿易に関する将来の制度構築への関与も限られる。
メリットがあるはずなのにインドが加盟を拒否するという事態は、全く予想外というわけではなかった。インドは長年にわたり輸入に代わる産業振興戦略の一環として、極めて保護主義的な経済政策を取ってきたからだ。
<あくまで自立を目指す>
インドは1991年の金融危機の余波を受けて、初めて一連の関税障壁を解体する方向に動いた。以来30年間にインドの世界経済への統合は劇的に進んだが、貿易交渉におけるインド政府の姿勢はほとんど保護主義のままだった。
現在のナレンドラ・モディ首相の下では、この保護主義的な傾向がさらに際立っている。モディは就任から間もないうちに、「メーク・イン・インディア(インドでものづくりを)」戦略を推進し始めた。新型コロナウイルスの感染拡大がインド経済を直撃しつつあるときには、国内産業を後押しする経済自立策「自立したインド」を発表した。
<自由市場経済への不信感は与野党共通>
FTAに参加したさまざまな経験から、インドは自立を優先するイデオロギー的立場を強化した。過去に署名した貿易協定から恩恵を受けているとはいえ、そうした合意の結果、一部RCEP加盟国相手の貿易収支が赤字になっていると加盟反対派は指摘する。
さらに反対派は、日本、韓国、ASEANとのFTAを国内製造業の衰退に結び付けている。スブラマニヤム・ジャイシャンカル外相は最近、貿易協定が工業の空洞化につながっていると主張した。
過去の貿易協定では、政策と規制改革に加え、国内の製造業を支えるインフラを構築する努力が伴わず、協定から得られるはずの利益が限られたことは否めない。反対派の大きな不満の1つは、過去のFTAにはセーフガードの項目がなかったため、中国からインドへの輸出の流れに歯止めが利かなくなったことだ。
与党のインド人民党(BJP)と主要野党のインド国民会議派も、イデオロギー面では大きな違いがあるのに、自由市場経済への不信感は共通している。そのため、BJPが貿易協定への参加を拒んでも、最大のライバルである国民会議派から攻撃されることはほとんどない。実際、国民会議派が政権を主導した2004~14年に締結された過去のFTAには国内に否定的な見方が多く、それが同党のRCEPに対する激しい反対につながったのかもしれない。
自由貿易そのものへの抵抗感とは別に、インドが譲歩を拒む大きな理由は少なくとも2つ考えられる。
第1に、関税障壁をいきなり撤廃すればグローバルな競争力のない多くのインド企業が打撃を被る。鉄鋼やプラスチック、銅、アルミ、紙、自動車、化学製品などインドの産業を支える業界は、RCEPからの離脱を歓迎した。
第2に、インドの政治家は大票田である農家をないがしろにできない。多くの農家は、市場を性急に開放して外国の農産物を受け入れた場合、大きな不利益を受けかねないと考えている。大規模な改革が行われれば、家族経営の小規模農家は廃業に追い込まれる恐れもある。
特に酪農業界からは反発が強い。工業化を進めて高い競争力を持つオーストラリアやニュージーランドの酪農業界との競争に不安があるためだ。
一方、インドのサービス業界はRCEPへの参加を支持するのではないかと思われがちだが、こちらも複雑だ。WTO(世界貿易機関)の2018年のデータによれば、インドはサービス輸出国としては世界8位、サービス貿易国としては9位につけており、今や立派なIT・ビジネスサービス大国だ。実際、インドのIT企業はRCEP加盟国の市場参入拡大を求めてロビー活動を行ってきた。
<経済利益以外にも理由>
だがインドがIT関連の輸出を進めれば、同時に技術者も国境を越えていく。そのためインドのIT企業は特に中国に対し、商用ビザの規則や現地国での納税義務について譲歩を求めてきた。
こうした問題には国の移民政策に関する論争が絡むため、交渉は一筋縄ではいかないことが多い。RCEPはサービス業の自由化を一部約束したが、加盟国は技術者の「輸出」問題に関しては譲歩しておらず、この点がインドには大きなネックとなっていた。
さらにインドのサービス業界はとりわけ保護貿易志向が強く、市場を開放する段階にはまだない。その一例が電子商取引で、インドの政策の枠組みや規制環境が未整備であることが市場開放の障壁になっている。
<アジアから米欧にシフト>
RCEP加盟諸国は、サービス輸出国としての躍進が著しい。例えば中国は、インフラや物流、テクノロジーの関連部門で輸出額を大きく伸ばしている。
前出のWTOのデータによると、中国は2018年にサービス輸出国として最も急成長し、世界5位になった。WTOが分析しているように、インドにはRCEP加盟に強く賛成する声は少ないが、声高に反対する業界や部門は多い。
インドがRCEP交渉を離脱した理由は、経済的な利益だけでなく、貿易戦略や地政学的な要因も大きいかもしれない。モディ政権は自由貿易協定への取り組みを見直し、重点をアジアから米欧に切り替えた。この戦略は、RCEP離脱によってインドは多国間貿易協定から孤立するという見方に対抗するものだ。
だが過去の経験が示すように、アメリカとFTAを結ぼうとしても容易なことではない。米政府が貿易協定で一般的に求める基準は、RCEPのレベルをはるかにしのぐ。特に「投資家対国家」の紛争や知的財産権などの分野に関しては要求が厳しい。
RCEPに参加せず独立独歩の路線を取れば、将来的に有利な立場でFTAの交渉に臨めるのではないかと、インド政府はにらんだ。だが、そのシナリオが実現する可能性は低い。中国のWTO加盟が示したように、既存の協定に参加するには、より大きな譲歩を迫られる。さらにインドはRCEPからの撤退により、電子商取引などの貿易分野で新たに持ち上がる問題の解決に向けた規範作りに発言する機会も失った。
インドが経済強国になるためには、政策と規制環境を改め、今までの協定を見直して再交渉する必要がある。新しい協定に参加しないことがその答えではない。
From Foreign Policy Magazine
<本誌2020年12月8日号掲載>
0コメント